『KID A』
いつものように、目がさめた。
起きあがれば、いつもどおりの部屋が見える。ぼくの妹と、ぼくの兄。ふたりがまだねむっている。
それなのに、窓からもれる灰のにおいも草のにおいもはっきりと分かるのに、この部屋のなかでひとり、ぼくだけがとり残されている気がする。
ふたりとも、ねむっているから? それとも、昨日はやくにねたから?
「う、んん」
ぼくの頭からなにかふかいけむりのようなものが、はなれない。
けっして具合がわるいわけじゃないのに、なんでだろう。ひどく、まくらがつめたい。わるい夢を見ていたわけでもない。なのにどうしてこんなにへんな感じがするんだろう。
そうだ、ドアを開けよう。そうすれば、お母さんがいる。変なかんじなんかなくなる。
そう思って、僕はドアを開いた。
なにごともなくドアは開いたから、ぼくは少しだけ安心した。
そこでは、窓や天井から光がさしこんでいる。そして、背をむけている、いつも見なれたすがた。お母さんがいる。
「おはよう」
「あら、もう起きたの?」
お母さんは、ふつうだ。なにも変なところはない。
ぐつぐつと音を立てる鍋と火であぶられつづける釜が見える。その熱気が近くに感じられる。さっきまでのひえきったまくらとは大ちがいだ。ほっとする。
「うん……」
ぼくはいつのまにか笑っていた。安心したのだ。お母さんがいることにも、いつもの朝の風景が広がっていることにも。
だから、安心して聞いてみた。
「あ母さん」
「なに?」
「ぼく、なんかへん?」
なにげなく、聞いた。何のためらいもなかった。
ぼくの問いに答えようとする母の目線は、およいでいる。
どうしてぼくが見れないの? そう思っていたら、早口でこう答えた。
「何も変じゃないわ。怖い夢でも見たの?」
こわい夢なんか見てない。ただなにかがひっかかるんだ。
「ううん」
あはは、とお母さんは笑った。
湯気を立てながら朝ごはんはできあがっていく。いつもどおりの日常。
何も変なところはないわよ、と母はつけくわえた。
よかった。ぼくは変じゃない。
安心して、ぼくは部屋にもどった。
しずかに閉めたドアは、鉄でできたのドアノブがついている。だけどとびらは木でできている。
あらかじめ組み合わせるために、これらはかたちを曲げてつくられている。
「う、んん」
ぼくは、せのびをして、またねよう、とおもった。
ふとんの中に入る。さっきまでのあたたかさが、ふとんのおくのほうにこもっている。
ぼくの足はいつのまにか冷たくなっていた。朝はさむいからだ。
ねむけがぼくをつつむ。さっきまでの変なかんじもしない。ただただあたたかなふとんのなかにぼくはいる。
そして、めをとじて、くらやみのなかにすすんでいく。
だれもいない。なにもみえない。
そんな、あたりまえの世界がひろがる。
まぶたをふせるかふせないかの瞬間に、小さな天井の穴から、ぼくには見えない光がさしこんでいた。
「う、んん」
僕は背伸びをした。どうも術後は眠くて仕方がない日々が続く。
とはいってもその手術自体は僕の体に何らかの手を加えるために大きな負担がかかり、命が削れるわけでもない。
というか、もうとっくに命の類はすり減っている。だから手術を受けた。
「もう、そろそろかな」
僕は医者に診てもらって、余命はもう短いといわれた。
余命が短いということは、延命の措置を取るのが現代の医療機関では原則的に行われることだ。
点滴を打って、ベッドの上で何も変わることもない天井を見つめる生活。
どこか遠い国へ行って、尊厳死する終末。
病院をふらふらの体で抜け出して、どこか遠いところを目指して逃げ回る生活。
延命を拒んで自殺を図る自分の愚かさを笑う終末。
色々な生活が僕にはあった。しかし、それらのどれも選ばなかった。
僕が選んだのは……
「おはよう」
「おはようございます、先生」
白衣が目に痛いほど白く、この部屋に先生は溶けてしまいそうだ。
「君の希望したとおりの方法で、君の延命は成功した」
「ありがとうございます」
医者にそう受け応えると、僕はシャッター越しの空を望もうと、医者に背をむけた。
「延命は成功したが、犠牲が出た」
医者は言った。これはもう何度も聞いたセリフだ。さっさと止めてほしい。
その理由が分からないでもないが、あんたも自覚してやったことだろ?
「君は……罪悪感を感じないのか?」
医者はまた言った。もう何度目だ。
「感じませんよ、罪悪感なんて」
僕はくすりと笑った。
「感じません」
だんだん笑いがこみ上げてくる。
「なんてことを言うんだ。君は」
医者がうるさいな。そう思いながらも僕は僕で笑いが止まらなくなってきた。
「あはははははは」
「何がおかしいんだ?」
「ふはははぁっははははははは」
もう笑いが止まらない。ついでに色々と手足が暴れだす。
花瓶が割れる音。カーテンがぶつりと切れる音。ばさばさとシーツが舞う音。耳障りな医者の警告の声。
耳障りな医者の声。
「またか! この末期患者は……」
耳障りな医者の声。
「拘束具を持って来るんだ! さあ早く!」
また何かが割れる音。今度は何だ。
耳元を冷たい強風が突き抜けた。あ、窓が割れたのか。
手足が暴れて止まらない。
「あはははははああああぁ」
今度は鈍く響く音。痛み。痛み。痛み。痛み。
「う、んん」
僕は痛みの中で目を覚ました。
しかし、今、目に見えるものは暗闇だけで、耳に届く声は大声で何かを叫ぶものだけで、おそらくそれらは体が自由に動かないことに関係しているんだろう。
痛みが追加されました。
左腕だ。それだけは分かる。そして、どんどん痛みが抜けていく。
そして、体中を冷たい感覚が這いずり回る。
それが、もう頭のあたりまで来た。
最期? そんな言葉とは程遠いよ。これはなにかの始まりが来るのだと僕は期待している。
頭の中に直接、単語が届く。ざらりとした感触の、「これでやっと、クローン人間の正式な誕生だ」という声。
クローン人間の正式な誕生。それ、そうだよそれ。
「そうだよ。それが『なにかの始まり』で、僕の終わりだ」